いとしきみへ

両面宿儺の圧倒的な邪気が千々に砕けて、まるで蒸発するように大気中に溶けて消えた。
一面の瓦礫の中央、半径1キロほどの不自然な更地の中央に立ち尽くす虎杖から、ほんの3歩ほどの距離で向き合っていた俺は、ゆっくりと息を吐き出して、印を結んでいた手を解いた。

呪いの王は祓われ、虎杖は立っている。
俺達が勝ったのだ。

虎杖は、これからも生きられる。

生きられるのだ。

失われた命も多い中、最も救いたかった善人の命が残った。
まだ実感は得られない。
それでも疲弊した足を動かし、呆然と空を見つめている虎杖に歩み寄る。
虎杖の顔が傾いて目があった。
いつもの無垢な笑顔を作る時のように口角があがり。

……ふしぐろ

たぶん、俺の名を呼ぼうとしたはずだった。
そういう形に唇は動いていた。
だが、そこからこぼれたのは大量の鮮血だった。
がくんと力を失い、膝をつく。
地に崩れ落ちる前に抱きとめる。
指が、手首が切り落とされたように落ちて転がる。
身体中の古傷が開き、あちこちから血が溢れて、肉体が崩壊してゆく。
制服の中で、胸元から塊がずるりとすべり出た。
上着の裾からこぼれ落ちたそれが何なのか、見なくてもわかった。
「そんな……なんで……」
抱きしめる腕に力を込めると、体液の染みた制服の布地がぐしゅりと音をたてる。
ふっと弱く息が吐き出されて、それきり。
最後の言葉も残せず、虎杖の身体は沈黙した。

鉄錆に似た甘い血臭。
急速に冷えてゆく肉体と泣き喚きたいほどの激情を抱え、なぜか、噛み締めた歯の隙間から押し出されるのは圧し殺した笑い声。

虎杖、これがオマエの言う「正しい死」なのか?


空の端が白みかけ、日が昇ろうとしていた。


「2018年10月31日、一部の呪詛師によって起こされた大規模テロが、渋谷事変である。丁度きみたちが生まれた年だからテストで外すなよ!……で、これにより、呪霊の存在が認められるようになったわけだ……ハイ、日本史資料53頁開いてー……ここに、事件前と事件後の渋谷の写真がありますが……」
パラパラと本をめくっていると、隣の佐藤が「なぁなぁ」と小声で話しかけてきた。
「オマエん家、呪詛師なんだろ?オマエもこういうの出来んの?」
資料本の写真を指さして見せる。
まるでお祭りみたいに人の多い交差点、ごちゃごちゃとしたビルが乱立している中に、ひときわ目立つ109の大きな文字のついたビル。
その隣には、廃墟となった同じ場所の写真がならんでいる。
俺はそれをちらりと見て口を尖らせた。
「呪詛師じゃないよ、呪術師」
「どっちでも一緒じゃん、出来んの?」
「出来るわけないでしょー」
こういう話題はよく振られるから慣れっこだけど、呪詛師と呪術師の違いも学校で教えてくれんのかな?
全然違うのに。とは思うものの、違いを説明するのは小三の頃に面倒になって諦めた。

呪霊が視える人は昔から稀で、祓う力があるのはその中でも更に少ないから、普通は授業の中の15分程度で習う知識しかない。
習ったところで「渋谷事変は秘密裏に開発された兵器の暴発であり、呪術の存在はそれを隠すための政府の陰謀」なんていう説を信じている人も多い。
ほとんどの人には視えないんだから、仕方ないんだけど。

うちみたいな呪術師の家庭は、大昔から存在しているけど、この渋谷事変が起きるまでは一般的にはファンタジーだったらしい。
俺が物心ついた頃は当然、誰もが当たり前に呪霊避けの御札とか御守りを身に付けてたから、呪霊の存在が世間的に認められていなかった頃がどんなだったのかは知らない。
でも、うちの人たちが言うには原因の分らない突然死とか行方不明とか多くて大変だったとか。
「こら禪院!佐藤!喋ってないでまとめプリント書け!あと5分で回収するぞ」
「はーい」と返事をして、プリントにシャーペンの先を乗せる。

2018年10月31日、渋谷事変。
このあとの2019年3月20日に俺は生まれた。

俺の親はその事件の関わりで死んだ。
なんでも親は、禪院家、五条家、加茂家の呪術師の御三家当主とも交流があったらしい。
なにやってた人なのかは知らんけど。
中でも禪院家は特に縁が深かったらしく、俺を養子として引き取って育ててくれた。
おかげで孤児のはずの俺は、何不自由なく生活させてもらえている。


俺には呪力と術式がある。
呪霊も見える。
運動もかなり得意だ。
最新の記録は50メートルを4秒。もうちょい張り切れば3秒行ける気がすんだよね。
生まれたての時に大量の呪力を浴びたせいかもしれんってことらしい。
術式はたいてい遺伝だから、俺みたいなのは珍しいんだと。


プリントが回収されて授業に続いてHRが終わると、みんな慌ただしく帰り支度を始める。
教科書類をロッカーに仕舞っていると、また佐藤が話しかけてきた。今度は他に4人が一緒だ。
「部活のあとで、みんなで学校に集まって肝試しすっからさ、一緒にやろうぜ」
テニス部の女子も4人誘ったし、花火も買ったし。とリュックからお得用パックをチラ見せする。
正直花火は魅力的だけど、もうすぐ迎えがくる時間だ。
「俺すぐ帰んなきゃだから無理だって、それに肝試しとか危ないからやめときなよ」
「だからオマエに来てほしいのよ。呪霊とか視えんだろ?一緒に居たら安全じゃん」
「無理、うちの人に止められてるもん」
「おまえんとこの家の人にも言ってさ、ちょっと待っててもらえばいいじゃん」
うーん、と言葉を濁して窓越しに正門を見る。
正門の前には既に黒い車が停まっている。
運転席の中までは見えないけど、こっちの気配を捉えているのがわかる。
俺を守ってくれている人達だから、少し遅くなると伝えても駄目とは言われないだろう。
あの人達が俺の行動が制限したことは、一度も無い。
制服の上から、胸元の御守を探る。
心臓の真上にあるそれは、俺の無事を願う気持ちが込められている。
「……でもやっぱ待たせるの悪いから、帰るよ」
「付き合い悪ぃなーちょっとくらい良いじゃん」
なーと振り返って仲間同士で頷く。
「悪ぃな。とにかく無理なもんは無理」
しょーがねーなー仕方ないかー禪院家の跡取りだもんなーと口々にぼやくのを尻目にロッカーを閉めて、跡取りじゃねーし、学校は結界あるから呪霊は寄らないけど、それでもほんと危ないから止めときな?と念押して教室を後にする。
つってもやるんだろうな。と、溜息をつく。
この学校の結界は禪院家が張ってるやつだから信頼できるけど、それでも恐怖を呼ぶ行為が後に何を生むのかわからないから危険なんだよな。

だけど。

花火、いいな。
今度庭でやろうかな。
恵が帰って来た時に誘ってみよう。
靴を履き替えて校門に向かうと、待っていた迎えの車に乗り込んだ。


学校から車で帰る途中、スーパーに寄ってもらって花火を買った。
少し迷ったけど、たくさん入ったファミリーパックを奮発。
うちは人が多いから、手の空いてる人も誘って大勢でやったら楽しいだろう。
屋敷の入口に横付けされた車から降りて、通用口から中に入る。
古い造りの木造平屋は少し薄暗い。
薄い光の差す廊下の床は、長年磨かれて黒光りしている。
古いガラスのはまった窓は、庭の景色を柔らかく歪めて白い障子を照らしていて、夏でもちょっと涼しい。
俺はこの家が好きだ。
人が多くてお客の出入りも多いけど、みんな優しい。
昔はそうでもなかったって真希さんが言ってたけど、俺が知るこの家はとても温かい。
迷路のような廊下を進んで、長い渡り廊下を抜けた先の建物に入る。
十二畳の来客用の和室を抜けて、奥の十二畳が居室。
テレビ、本棚、床に置かれた大きめのクッション。細々とした雑貨や雑誌。よく片付いた他の部屋に比べて、ここには物が溢れている。
窓際の勉強机は俺ので、その反対側には大きめのワークデスク。こっちは恵のだ。
その更に奥が、寝室として使っている十二畳。
生活空間のこの3部屋をぐるっと見回し。ちょっとがっかりする。
恵が帰宅した形跡がない。 
今日は帰ってくるって言ってたのに。また長引いたのかもしれない。

恵の机の鏡面をつるりと撫でて、自分の勉強机に向かうと鞄からワークブックを取り出して広げる。
恵が帰ってくるまでに課題を終わらせて、花火で遊びたい。


だけど結局、恵は帰ってこなかった。
風呂も済ませて部屋に戻る途中、家の人に「御当主様は、今日はお帰りになれないそうですよ」と声をかけられた。

なんとなく、そんな気はしていた。
恵はすごく忙しい。
予定が変わるのなんていつものことだ。

恵は、戸籍上の俺の養父……とはいえ渋谷事変直後に亡くなっているんだけど……の従兄弟の息子だけど、事実上俺の養父みたいな人だ。
俺を育てて、呪力の扱いとか諸々も教えてくれている。
禪院家の当主で、すごく強くて頭も良い。
呪術界でも有名な人だ。

そんなすごい人だけど、独身だ。彼女もいない。
呪術師はいつ死ぬかわからないから結婚しない。という話しを聞いた時は、ちょっと悲しかった。
恵は俺の家族だから、ずっと元気でいてほしい。そう言ったら「オマエもな」と優しい声で頭を撫でてくれた。
それでも時々、家の人たちの話し声の中に「お見合い」「お相手」なんてキーワードが混じる。
そりゃそうだろう。
御三家の一角、禪院家の御当主様だ。
ずっと独身なんで無理だと思うよ。

恵が結婚したら、俺は別の部屋になるんだろうなと思うとちょっと寂しい。
もう高校生になったのにまだ父離れ出来ないみたいでちょっとかっこ悪い。だから寂しいなんて絶対言えんけど。
出来れば、高校卒業して独り立ちするまでは待ってほしい。なんてのは……我儘なんだろうな。

そんなことをつらつらと思いながら頭を拭いていると、スマホが振動した。
一瞬期待したけど、表示された名前は佐藤。
タップして応答すると、焦ったような小声が飛び込んできた。
「ぜ……禪院?」
聞こえてきたのは囁くような怯え声。
言葉に出来ない悪寒に背筋が冷える。
「なんかあった?!」
「学校の裏山のっ!神社」
「他のみんなは?」
「わ……わかんねぇ……いなくなってて!!」
「とにかくそこ動くなよ!今行く」
スマホをポケットに突っ込み、寝間着代わりのスウェットのまま走って玄関に向かう。
すぐにうちの人達が駆け寄ってくる。
「どこに行かれるんですか?」
「ごめん!友達が危ないから行ってくる!学校の裏山!」と返しながら駆け出す。
「行ってはなりません!」
「誰か!追って!」
「当主様に連絡を!」
一気に騒がしくなるのに申し訳ない気持ちを置いて走り出す。
全身に呪力を纏わせ、強化し、地面を蹴る。
耳元で風を切る音。
ぐんと体が浮き上がり、薄闇の中、住宅街の灯りが眼下に広がる。
道を外れて住宅街の屋根を越え目的まで一直線。方角だけを意識した最短ルートを飛んでいく。
あっという間に校舎に着き、更にそこを飛び越え、裏山に。
ぐんと迫る山肌にびくりとする。

山が、起きてる。

山道の入口の石造りの鳥居の下に立つ。
どっと嫌な汗が流れる。
湧き上がる呪いの気配が山全体を包んで俺を拒んでいる。
これ、たぶん1級だ。
あいつら、なんでここに?
学校で肝試しって言ってたのに。
佐藤たちの気配を探しながら、真っ暗な山道を駆け上がる。
空気は呪霊の気配と混ざり合って泥沼のように淀んでいる。
人の気配は確かにあるのにわからない。
感覚が狂わされている。
中腹で立ち止まり、息を整えながら周囲をぐるりと見回す。
ざわざわと木々が蠢いている。
呪霊の気配が濃い。
明確な悪意を感じないのに、強烈な怒りが溢れている。
もう少し上だろうかと足を踏み出すとカツンと金属を蹴った。
ペンタイプの懐中電灯だ。
「……禪院?」
かすかな声にはっとする。
「佐藤?」
声のほうを見ると、草むらに蹲る青白い顔を見つけた。
よかった。
駆け寄って肩を掴むと、服ごと冷えて、震えている。
「よ……良かった!来てくれたんだな」
「他のみんなは?」
「わからねぇ……みんなで逃げたけど、後ろから一人ずつ……っ……つ……連れてかれたみたいで……悲鳴が……」
頭を抱えてガタガタとふるえる。
この裏山は、何度か来たことあるけど、こんなんじゃなかった。
怒りを買うような何かをしたんだ。
「オマエら何したの?」

学校には結界があって呪霊が出ないらしいって禪院が言ったから裏山でやろうってことになって、二人一組で上の社の札を剥がしてこようってことになったんだよ。
最初の奴らが戻ってきて、次のペアが行こうとしたら変な臭いの風が吹いてきて、急に怖くなって、やっぱやめようってことになって……でも、その途中で何かが追いかけてきて……


佐藤を背負って走り、山の麓の鳥居の外に出る。
一歩出れば呪霊の気配はすっと消えた。
その呪霊はここから先には出られないのだろう。
「たぶん、うちの……禪院の人たちが来るから、それまでここ絶対動くなよ?俺はもっかい上行って、みんなを探してくっから」
「っ!や!待ってくれよ!一人にすんなよ!」
強い力でスウェットを掴んで縋り付いて叫ぶ。
「また襲われたら!」
「大丈夫、この鳥居より外は安全だから、とにかく一歩も動かんで……」
「や……嫌だ!一人は怖い!助けて!」
スウェットを掴む手に力が籠もる。
そりゃそうだよな。
視えないし感じないからこそ、危険かどうかもわからないのだ。
だけど今は一刻を争う。
はやく他の皆を探さなければならない。
ためらわず、服の下に身に着けている御守袋を紐ごと外して佐藤の首にかけた。
「これ、禪院家の当主が特別に術をかけてるやつ。これ持ってたら絶対大丈夫だから」
いいな?と有無を言わさず了承させると、再び参道を一気に駆け上がる。


佐藤を見つけた場所を通り過ぎ、社を目指す。
ぐんと強くなる気配に奥歯を噛んだ。
たぶん一級。
俺じゃあ祓えない。
でもせめてみんなを助けないと。

ぽかりと開けた、小さな社の敷地にたどり着くと、そこをぐるりと周る。
人の気配は無い。
呪霊の気配はずっとあるけど、あたり一面に濃く広がっていて方向がわからない。
つれ去られたみんなはどこに居るんだ?
社の前に立ち、賽銭箱に目を落とす。
一抱えほどの、赤い小さめの賽銭箱は、封印の札で全体が覆われていた。
一箇所、剥がれた跡。 


……二人一組で上の社の札を剥がしてこようってことになったんだよ……


どうする?

きっとうちの、力のある人達が俺を追ってきてくれる。
ここで待つのが正解だ。

でも………

待ってる間に手遅れになったら?
人気の無い参道を振り返り、まだ禪院家の人達が追いついていないことを確認する。
だめだ、間に合わない。

――助けないと。


――俺は強いから、できるだけ多くの人を助けてそれから―――いと。


うん。
と、ひとつ頷いて賽銭箱に歩み寄り、封印の札に手を伸ばした。

「どうしよう」
佐藤はその場に立ちすくんだまま、渡された御守袋を震える両手で握りしめていた。

真夏だというのに身体中がガクガクと小刻みに震え、歯の根が合わない。
呪霊なんて見たことがない。
外国の戦争とか、それくらいのぼんやりした認識で、本当に遭遇する可能性があるだなんで少しも考えていなかった。
それがどうだ?
何も見えないのに、すぐ近くにいたはずの友達は消えてしまった。

「……本当にいるなんて思わなかったんだよ」

皆は無事だろうか?
自分だけ助かったんだろうか?
先生や親にはなんて説明したら?
肝試ししようなんて言わなければ?
やめとけって言われたのに……

なにも考えたくないのに不安ばかりで押し潰されそうになる。
「神様助けて」
なにかも分からぬ神に祈った時、手の中の御守袋がぞわり冷えた。
とっさに御守袋を取り落とし、慌てて拾い上げようと手を伸ばした……が、横から白い手が現れた。
ぎゃっ!と悲鳴をあげて、後ろに倒れて尻餅をつく。

暗闇の中、長身の男が目の前に立っていた。
手にした御守袋をじっと見て、なんの感情もないように静かに呟く。

「なんでオマエが持ってんだ?」

こちらを一瞥もしない。
黒い髪と、闇に溶けるような、光沢の無い黒い服。
そして、まるで血の気を感じさせない冴えた白い顔。

呪術師だ。

会ったことはなかったが、おそらくこれが呪術師なのだろう。
ゾッとするような冷たい気配。
足音も立てずに突然現れるなんて、同じ人間に出来ることではない。

そのまま呆然と動けずにいると、参道を駆け上がってくる数人の足音が聞こえてきた。
禪院が言っていた「うちの人達」が来てくれたのだろう。
はっと振り向いた瞬間、強い風が吹き、収まった時には男の姿は消えていた。


札を剥がした瞬間、ぐにゃりと場が歪んだ。
踵を軸にぐるりと回って周囲を確認する。
何も無い。
山にいたはずなのに平地だ。
社も、木々も空も消えた。
代わりに立ち込める生臭いにおい。
深い闇と、はるか遠くの地平線を縁取る空は、濁った赤い色をしている。
まるで血のような。
足を動かすと、ずるりと泥濘の感触がした。
すごく気味が悪いのに、どこか懐かしい。

たぶん、これが生得領域。
呪霊の生得領域の中に居る。
不思議と怖くはなかった。

連れて行かれた皆を探さないと。

どこに向かえば良いのか見当もつかないが、剥がした札を目印代わりにその場に置くと歩きだす。

呼吸がし辛い。
頭の中がぼうっとする。

みんなを
さがさないと

歩く足に意識を集中させて、握りしめる拳に力を込める。
短い爪が手のひらに食い込んだ。

いつだったか、こんなふうに暗闇の中を歩いたことがある。
悲しい気持ちがこみ上がる。
悪夢がずっと続いているみたいな出来事が沢山あって。
苦しくて苦しくて。
眠ることすらうまくできなくて。

ほんとはすごく寂しくて。

大好きな人と一緒に居たかった。

だけどそれは叶わないから。

せめて……

はっと我に帰り、足を止めると林の中に居た。
連れ去られた友人たちが倒れている。

駆け寄って呼吸を確かめほっとする。
全員ゆっくりと息をしていた。
眠らされているのだろう。

ここから出ないと。


ブーンと虫の羽音のような音がして目を遣ると、木々の間に虫の大群が集まっていた。
得体の知れない呪力が伝わってくる。
ゆらゆらと揺れて、まるで黒い幽霊みたいだ。
これが、この領域の呪霊なんだろうか。
地に倒れている友人達を一度に全員運べない以上、呪霊を倒して生得領域を解除するしかない。

実戦の経験はまだないけれど、やるしかない。

集中して呪力を全身に纏うと同時に地を蹴る。
拳を振りかぶり虫の群れに飛び込むが、ふわりと分散し、拡散。そして再び塊になる。

これって、俺とはめちゃくちゃ相性悪いんじゃね?
「やばいかも」
的は小さい上に素早くて数も多い。
術式の火は効きそうだけど、俺の術式は強すぎて、まだコントロールがうまくできない。ここで使えば倒れてるみんなも無事では済まないだろう。

一匹ずつ潰すしかない。
覚悟を決めて虫の群れに飛び込む。
数匹ずつまとめて手で握るようにして祓っていくが、次々に湧いてきりがない。
これが本体ではないのかもしれないと思ったものの、どうしたら良いのかわからない。

呪霊の敵意が高まる。
羽音がいっそう大きくなると同時に一斉に向かってきた。
あっという間もなく目の前が真っ黒になり、全身に刺すような痛みが走る。
立っていることもできず、両腕で顔を覆って地に伏せた。

たすけて

喉にせり上がる弱音を飲み込むものの、痛みで思考が鈍る。
術式の訓練、もっと頑張っていれは……でも恵に禁じられてて……たすけてよ恵……このままじゃ俺……

『落ちつけって、大丈夫だから』

朦朧とした頭で誰かの声を聞いた。
近づいてくる。

『俺』はちゃんと戦えるよ。
大丈夫、覚えてるから。

虫に覆われた中で僅かに頭を上げると、黒い服を着た誰かが目の前に居た。
顔は見えない。でも俺自身によく似ている。
虫はその身体を通りすぎる。
まるで何も無いかのように。

『出来るよ。集中して、残穢を辿れば本体がわかる』

心の中に直接聞こえてくる。
目をぎゅっとつぶり、虫の残穢を辿る。
闇の中で虫それぞれから葉脈のような糸が林の奥に。
その中の一本の木に繋がってる。

『目をつぶったままでいいよ』

集中して
力はほんの少しでいい。
小指の爪の先くらい。

見えない手が俺の手に触れる。
すっと身体が寄り添って、俺自身と重なると、痛みが引いて力が湧いた。

狼狽えたように虫達が離れてゆく。
ぐいっと、操られるように動く。
身体が軽い。
立ち上がって弓を引くように左右の腕を前後に構えた。

「■開」

どん

地響きがして我にかえる。

今、俺、何した?

目を開けると世界は一変していた。
虫も林も消えて、真っ白な空間の中、ぐらぐらと世界が揺れて立つことも出来ない。
生得領域が消えようとしているのが分かる。

何が起きた?
俺は何したの?

みんなを連れてここを出ないと。
でもどうしたら?


「嵌合暗翳庭」


低い。
低い声が響く。

そのとたん、世界は闇よりも深い影に染まった。


その影の中心にいる人を、俺は誰よりもよく知っていた。
なんで忘れていたんだろう?
すっと遠のく意識の中で、俺は手を伸ばし、その名を口にした。

「ふしぐろ」

そして俺は、すべてを思い出した。


両面宿儺の圧倒的な邪気が千々に砕けて、まるで蒸発するように大気中に溶けて消えた。
一面の瓦礫の中央、半径1キロほどの不自然な更地の中央に立ち尽くす俺から、ほんの3歩ほどの距離で向き合っていた伏黒は、ゆっくりと息を吐き出して、印を結んでいた手を解いた。


嘘みたいだ。
宿儺を祓って、俺はまだ生きている。
目の前の友人の、呆然とした顔を見た。
きっと俺も、似たような顔をしているんだろうな。


「ふしぐろ」

名を呼んで、駆け寄ろうと足を前に出したはずが、視界が傾いだ。
体全体が引き裂かれるような痛みに貫かれ、だけどその一瞬の後には痛覚も意識も急激に遠のく。
ああそうか。
やっぱりダメなんだ。

俺を抱きとめたらしい伏黒が何か言ってる。
頬に触れる胸が暖かい。
大好きだよ。
ありがとう。
ごめん。
言いたいことは沢山あったけど、言葉にできないまま。


そうして俺は死んだ。

目を覚ますといつもの布団の上だった。
頭を巡らせると、隣に伏黒があぐらをかいて座っている。
「伏黒」
「……ああ」
ゆっくりと起き上がり、向き合うように座った。
へんなかんじだ。
伏黒恵、いや今は禪院恵。
俺の実質保護者で、物心ついたときから側にいる。
そして、高校一年の頃に俺と仙台で出合い、1年にも満たない間だったけど共に死線をくぐり抜けた同級生で、戦友。
その伏黒は今はすっかり大人で、細身だけどしっかりした体格をしている。
ツンツンしていた髪は少し落ち着いて、少し長めの前髪の間から切れ長の目が覗いていた。
「どういうことなの、これ?」
「そう言うオマエは、今はどっちだ?」
「どっちって?」
「禪院悠仁と虎杖悠仁」
「どっちも、かなぁ?」
どっちもあるから、へんなかんじがする。
そう続けると、伏黒は「そうだな、たぶんそれは正解なんだろう」と呟き、右手で左肩のあたりを掴んだ。
昔からの癖。
今まで気にしてなかったけど、なぜか胸がぎゅっとした。
「どこまで覚えてんだ?」
「俺が、死んだとこまで」
死ぬのは2度目、いや3度目だからわかる。
眠ったり気絶したりするのとは違う。
意識がぶつりと引き剥がされるような感覚。
それなのになんで生きてんだろう?
反転術式だって死者の蘇生は出来ない。
宿儺は消えたから、その力での無茶な蘇生も無し。
しかも俺、子供からやり直してる。
可能性があるとしたら……
「俺、もしかしてクローン?」
言い終わらないうちに、チョップが頭のてっぺんに落ちた。
「映画の見すぎだ馬鹿」
痛くはないけど頭をさすり、口を尖らせる。
「……でも生き返ってるなら映画みたいなもんじゃん」
文句を言うと、伏黒は少し笑ったみたいだった。
ずっと一緒に暮らしているのに懐かしい。
なんだろう、さっきから胸がドキドキする。
「反魂だ」
ためらいがちがちに伏黒は口を開き、全てを話してくれた。


力を失った虎杖の身体をゆっくりと地に降ろし、身体から離れた手足を正しく並べ、上着を開いて内臓を腹の内に戻す。
この工程が必要かどうかはわからなかったが、そうせずにはいられなかった。
たまに死人の顔を「眠っているようだ」と言うことがあるが、虎杖の顔はそれとは程遠く、明らかに死人の相貌となっていた。
血に濡れた土気色の肌。薄く開いた瞼。血と吐瀉部で汚れたくちびる。
さっきまで生きて、動いていた。
こんな虎杖を見るのは2度目だったが、見慣れるということはない。
虎杖は、俺にとって何だったのだろう?
善人で、恩人で、友人だった。
ついに伝えることは無かったが愛してもいた。
俺にとって虎杖の存在は、世界を守る価値があると思えるものだった。

この命を救えないなら、世界のルールなど何の意味があるのだろう?
呪詛師になることも怖くなかった。

虎杖を取り戻す。

印を結び、禁呪を唱える。
ぶわりと呪力が高まり渦を巻き、横たわる身体に流れてゆく。
そして……


「本当は、あの時、オマエを蘇生できるはずだったんだが、戦いが終わった直後で呪力が足りなかったのか、それとも俺が未熟だったせいか、蘇生したオマエは産まれたての赤ん坊になってた」
「……」
「だが、結果、それは都合が良かった。宿儺の器、虎杖悠仁は死んだことになり、俺も、禁呪を使ったことを知られずに済んだからな」
「……先生、とか、釘崎、とかは?」
かつての恩師とクラスメートを思い出す。
禪院として生きる中で、時折ふらりとやってきては訓練や遊びにつき合ってくれていた。
彼らは知っていたのだろうか?
「みんなにも、オマエは死んで、そのあとすぐそこで赤ん坊を拾ったって話した。バレバレの嘘だったが、みんな解っていてそういうことにしてくれるんだろう」
オマエの死体が消えて、しかも赤ん坊に着せるものが無かったから、オマエの上着でくるんでしまったのだ。
さすがに俺も動揺してたんだろうな。
そう話して伏黒は、少し笑った。
「育つうちにだんだん昔のままのお前に似てきて、呪術界の上の連中をどうしようかと思っていたが、急に病気でバタバタと……」
「え……?それって???」
「で、今は、呪術協会は御三家、五条先生と、加茂さんと俺で仕切ってる」
「うん……それは……知ってる……けど」
確かに、今思えば、禪院としての最初の記憶で俺は寮の中で遊んでいた。
「もしかして伏黒、高専で学生やりながら俺を育ててたん?」
「俺だけじゃねーよ、任務のときは先輩や釘崎とか、信用できる人に預けたからな」
あああやっばり!!と、頭を抱える。
「てことは、俺、みんなにオムツ代えられちゃったの?」
今までは優しい大人たちだと思って甘えてたけど、これはキッい。
次からどうやって会えば良いん?
「赤ん坊だったんだ、誰も気にしねぇよ」
「俺は気にするんだって」
「気にすんな。つっても無理かもしれねぇが、どうしようもないだろう。諦めろ」
大きな掌が俺の頭を掴むようにガシガシと乱暴に撫でる。
ぐらぐらと頭を揺らしながら、俺は泣き笑いのような顔をしていた。
宿儺は祓って、でもその術式が刻まれたまま俺は生まれ直したのか。
どう考えたら良いのかわからない。
「俺、これからどうしたらいいの?」
「好きに生きればいい。オマエはもう『宿儺の器』じゃねぇんだ、ゆっくり考えれば良い」
それより今日はもう寝ろ。
そう言って伏黒は俺を布団に押し戻した。
横になった俺に毛布をかけて、その上からぽんぽんと軽くたたく。
赤ん坊の頃に寝かしつけてくれた時みたいに。

保護者としての伏黒はずっと優しかった。
でも最初に出会った時からずっと……

俺は、伏黒のことが大好きだったんだ。

その次の日、朝起きると伏黒は出掛けていた。俺はいつも通りに起きて、布団を畳み、部屋に運ばれてきた朝食をいつものように一人で食べる。制服を着ようとクローゼットを開けると、ハンガーの制服と一緒に御守り袋が掛かっていた。

佐藤に貸したやつだ。伏黒が受け取ったのかな?

ハンガーから外して手に取ると、伏黒の残穢を感じた。
残穢どころじゃない。これ、伏黒と繋がってる。
今まではこれを感じ取る力が足りなかったから気付けなかった。
だけど今はわかる。きっとこれは、伏黒が俺を守るために、俺の様子を常に見守るために持たせていたのだろう。
御守り袋から伏黒の熱を感じる。温かい。目の奥が熱くなって、喉が詰まった。

危険を犯して俺を生き返らせた伏黒。
あれからずっと、俺を育ててくれた。

一年にも満たない付き合いの友達に、どれだけの対価を払ってくれたのだろう?お人好しにもほどがあるよ。
伏黒。
俺はこの恩を返せるんだろうか?

登校してみると事件に関わった皆は休んでいて、朝礼では肝試しと呪霊の危険性について、学年主任から注意があった。
昨日のことはすっかり噂になっていて、教室に戻るなりクラスの皆から質問攻めにあったけど、事件を片付けたのは本職の人達だと分かると昼には落ち着いた。
非術師だけの学校で、通常の授業をうける。
社会の資料集を開き、あの日の渋谷の写真に目が釘付けになる。昨日見た時は何とも思わなかったのに、あの日の記憶が鮮明に蘇って胸の奥が凍りついた。

『……オマエもこういうの出来んの?』

昨日問われた言葉。出来るもなにも、俺がやったんだ。
たくさん。人を殺してしまった。

目の前がふっと暗くなりそうになるのを唇を噛んで耐える。目を逸らすわけにはいかない。
そうだ。生きている限り背負っていかなきゃ。逃げるなんて許されないのだから。

だって俺は、死ぬことすら出来なかったじゃないか。

昨日までのなんでもない平和なはずの日常が、今日はまるで地獄のようだ。
この教室の中で自分だけが怪物になったような、そんな異物感。
オマエはここに居てはいけないのだと、頭の中で居るはずのない宿儺の笑い声がした。

一日はあっという間に終わり、鞄をロッカーから出して昇降口に向かうと、門に横付けされた黒い車に乗り込む。
今まではただの運転手さんだと思っていた人も、呪術師だってことが今はわかる。
当たり前だと思ってた俺の日常は、伏黒の手配の元で大勢の人達によって守られていたものだった。
伏黒の人生の犠牲の上で作り上げられたものだ。
伏黒は「好きに生きればいい」と言ってくれたけど、それがなんだかとても難しい気がする。

俺は、宿儺を道連れに地獄に行くことを目標に必死で生きて、それを達成して死んだ。
死にたくはなかった。でもやりきって満足して死んだんだ。それ以上何を望めば良いのかわからない。

「俺」を思い出す前の俺は、漠然と消防士とかスポーツインストラクターとか、そんなかんじの仕事につきたいと思っていたけど今は消防士になろうとは思えない。
呪術師としての生き方しか考えられない。
呪いを祓って、祓って、呪いを祓う丈夫な歯車として苦しんで死ななきゃならない。
殺してしまった人の、その罪の分まで苦しまなきゃ釣り合わない。
もう宿儺は居ないけど、俺が弱かったせいで殺してしまった人達への、終わりの無い贖罪だけが残っている。

生き返ったことを手放しで喜べない。
死にたくなかったのに。もっと生きたかったのに、生きてて良かったと素直に喜べない。
俺だけがこんな手厚い幸せの中で何事も無かったように生きるなんて、そんなのやっぱり無理だよ。
座って外を眺めているだけなのに気持ちが沈む。
幸せなはずなのに、罪悪感で押しつぶされそうだ。

「悠仁くん、お疲れですか?」
ふいに運転手さんが声をかけてきた。
「うん、ちょっとね。でも大丈夫」
「気分転換にどこかへ寄りますか?」
大丈夫、と繰り返し笑ってみせて、目を閉じてシートに身を沈める。
みんな良い人だ。俺が人殺しだってことも知らずに優しくしてくれる。

ここは、俺には相応しくない場所だ。

生きている限り呪いを祓わなきゃいけない。
それが俺の存在理由なんだから。


玄関をくぐり、渡り廊下を進んでいくと、部屋の前に真希さんが立っていた。
今日は仕事が無かったのか、緩い私服のままで腕を組み、右肩で柱に寄りかかっている。
俺を見つけると顔を上げてにやりとした。
「おう、悠仁!帰ったな」
「た……ただいま」
ずっと同じ屋敷で過ごしてきた真希さん。
今までは、歳の離れたカッコイイお姉さんだと思ってた。
「学校、どうだった?」
「うん、いつも通り」
「その割には浮かねぇ顔だな」
「そんなことないよ。昨日のこともあるし、ちょっと疲れたかな」
エヘヘと笑ってみせる。どうしよう。今までどんな風に接していたのかわからない。
真希さんには昔を思い出したこと、言っても良いんかな?戸惑いながら「宿題あるから」と、横をすり抜けるともう一度呼び止められて振り向く。
「おかえり、悠仁」
それだけを言いおいて、真希さんはすたすたと立ち去ってしまう。
廊下に残された俺は、途方にくれたまま立ち尽くした。真希さん、どこまで知ってるんだろう?俺の変化に気付くのかな?思い出したこと、話しても良かったのかな?
急に不安になって、部屋に駆け込み、慌ただしく荷物を放ってスマホを取り出す。
すぐに伏黒と話をしなきゃだめだ。これからのこと、皆とのこと、相談しないと何も出来ない。
コールには応答がなかったけれど、チャットのアイコンが立上り「どうした?」と一言表示される。

これからのこと話したい。今日は帰ってくる?

昨日までの自分だったら何のこともない問いかけも、どんな言葉で話しかけたら良いのかわからない。
たぶん、二人分の人生と人格があるから混乱してるんだ。頭では何となくわかるのに、うまくいかない。
スマホを抱えたまま蹲り、膝を抱える。
俺は数学が苦手だったのに、今の俺にはちゃんとわかる。
今の俺はパチ屋に行かんし、酒を舐めたこともない。
他人を殴ったことも無いどころが生徒会の役員をしたこともある。
今の俺は、大勢の人を殺したという現実を受け止められない。考えるだけで気持ちが悪くなる。

それなのに、呪霊を祓い、人を殺した記憶と感触もちゃんとある。
戦って、苦しんで地獄に堕ちろと罵る自分がいる。
ついさっき呪術師に戻る決意をしたばかりなのに「今」の俺が畏れている。
息が浅くなって目の前が暗くなる。
俺は、きっと虎杖悠仁とは違う人だよ。
なぁ伏黒、オマエはなんで俺を生き還らせたの?

「虎杖……おい、起きろ」
どれくらい時間が経ったのか。肩を掴む手に軽く揺すられて目を覚ました。心配そうな顔で「大丈夫か?」と覗き込まれて覚醒する。
スマホを握ったまま床に横になって眠っていたらしい。手を付いて起き上がると伏黒の腕を掴んだ。
「伏黒!俺、話したいことがあんだ!」
いざとなったら何から話せば良いのか、言葉が出てこない。
もごもごとしていると伏黒はふっと笑って俺を抱き寄せた。
頬に当たる胸が暖かい。俺が死んだ時の、最後の記憶と重なって目の奥がツンと痛んだ。
伏黒はいつも優しい。今も、昔も。
「大丈夫だ、ちゃんと聞くから、話せ」
優しい言葉が降ってくる。
「俺、もう前の俺じゃないよ」
「昔のオマエも、今のオマエも、俺は誰よりもよく知ってる」
抱きしめる腕に力が入る。
「今も、これからも、オマエが俺の知らないオマエになったとしても、そんなことは問題じゃねぇんだよ虎杖、わかるか?」
腕が上がってゆっくりと頭を撫でられる。頭蓋を辿るように、ゆっくりと。
「オマエがここに在る。それだけで意味があるんだ」
更に頬をなぞり、耳の下から顎下をすくい上げられる。
自然と仰向くと、穏やかな笑みを浮かべる伏黒と目が合う。
白い肌の上に黒々と光る瞳。
それがまっすぐに俺を射抜いて、微笑む。
「オマエの魂とその器が健康で幸せならそれで」
「俺はっ!……俺は……呪術師に戻ろうと思って……でも、今の俺は嫌がってんの……わけがわかんなくて、俺……」
「死ぬより辛い」とは言えなかったが、弱音を口にすれば感情が引きずられてどこまでも気持ちが弱ってしまう。身体が震える。
嗚咽とともに、涙と鼻水がだらだら流れる。
分かっているのにもう止められなかった。
伏黒に掴まっている手を放して顔を拭おうとしたけど、すごい力で引き寄せられて再び顔を胸に押し付けられた。
伏黒の上着が俺の顔中の水分を吸いとっていく。突き放そうとしたけど力が入るわけがなかった。最後の抵抗のようにいつもの呪文を絞り出す。
「俺は沢山殺したんだよ。それなのに、ここでこんなふうに生きてていいわけないのに……」
せっかく助けてくれた伏黒にこんなこと言っちゃダメだってわかるのに、意思がぐらぐらに揺れてる。
それなのに伏黒は、そんな俺を眺めて笑みを深くした。
「虎杖、オマエはやっぱり善い奴だな」

この十五年間育てて分かったことは、虎杖の善性は、成長過程の環境ではなく生まれ持ってのものだってことだ。
こいつの魂が善性を伴っている。そうとしか思えなかった。
親でもなく、それどころか大人でもない俺の元で育ち、俺に任務がある時は信頼あるが育児に向かない他の呪術師に預けられた。
そんな異常な境遇で育ったにも関わらず、虎杖は、以前と変わりなく純粋で歪みなく育った。
さすがにパチ屋に行くような不良行為は覚える機会が無く、最初から面倒見てやったから勉強もよく出来るが、その後天的な差も虎杖の魂を変化させることはなかった。
成長するにつれて、外見だけではなく性格や口調までそっくり同じになった。
同じ顔、同じ声で「恵」と呼ばれるたびに、「伏黒」と呼ばれないことに違和感を感じるほどに。

生まれ直した虎杖には幸せな人生を全うして欲しかった。本来の虎杖が得るはずだった、学生を経て、なりたい職につき休日には好きなことをして過ごし、もしかしたら大切な誰かと縁を結び、家庭を持ったかもしれないその未来を。
血生臭いものはスクリーンの中でしか知らない、そんな人生を歩んで欲しかった。
呪術師である自分の手元で育てるより、一般的な非術師の家庭に預けるべきだとわかっていたが、そうしなかったのは悠仁が術式を持っていたからだ。
だが持っていなかったとしてもおそらく手元に置いていた。
それは言い訳のしようもない、強い執着だった。
虎杖を呼び戻したのは、虎杖のためなんかじゃない。俺自身のためだ。
俺は、この呪術界でしか生きられない。この世界でしか生きる術を知らない。
負の感情渦巻くこの世界で、虎杖の存在は唯一の救いだった。
三度失い、そのうち一度はあの混沌の渋谷から、二度目は黄泉から取り戻した。
以前の記憶が無くとも、育っていく悠仁は間違いなく虎杖の魂とその器のままだった。
日々続く任務を遂行する上でどれだけ汚い魂に触れても、無垢な寝顔を見るだけで穢れが濯がれた。
ずっと傍に置いておきたいという欲望と、人並みの幸せな人生を得てほしいという願望。
その二つは勝敗がつかないまま延々と戦い続け、いつか決断しなければならないその日がくることを恐れていた。

それなのに、虎杖は帰ってきた。
欲望と願望の戦いは、決着する前に終了した。

「誰か」と縁を結ぶことも、俺の手元から離れていくことも納得していた?
それは、過去を知らない「悠仁」なら、ということだ。昔のまんまの虎杖がここにいるのに、俺が、何を、手放さなきゃならねぇんだ?
俺は、俺自身が虎杖に対して並々ならぬ執着をしていることを理解している。
それは十五年かけて黒く凝り固まり、俺の腹の奥、見えない部分に深く沈んでとぐろを巻いていた。
見つからない出口を探して唸り続けていたそれは、今は歓喜の声を高らかにあげている。
虎杖が以前の記憶に苦しんでいるにもかかわらず、だ。

腕の中に収まる温かい肉体を強く抱きしめる。
あの時の冷えていく身体とは違う。脈打つ生きた身体。
一緒に戦った記憶も、過ごした時間も取り戻した完全な虎杖。

反魂の術は、15年かけて完成したのだ。

虎杖の頬を拭って、そのまま両手で頬を挟んで固定した。
傷一つないきれいな頬。大きな目が見開かれて俺を見つめている。
昔のことを沢山思い出して辛いんだろう?済んだことだって流せないんだよな?わかるよ。
オマエは善人な上に馬鹿だから、割り切ったり物事を整理して合理的に思考したりってことができねぇんだ。

解ってる。オマエはそういう奴なんだよ。
馬鹿で思い込みが激しくて、どこまでも善良で、愛おしい。
震える眼球を真っ直ぐに捉えて見つめる。
俺を見ろ虎杖。
俺には、オマエがどんなに血にまみれようと、汚物に浸ろうと、虎杖悠仁の魂の姿が見えている。オマエが自分を愛せなくとも、俺が愛している。俺は誰よりも、そう、オマエ自身よりも虎杖悠仁を理解している。

だったら俺の知るオマエが真実の虎杖悠仁だとは思わないか?

「虎杖、オマエが今、ここで生きているのはオマエの意思も何も関係ねぇ。俺のエゴだ」
「でも……」
「だから、俺の為に生きろ。それが、これからのオマエの存在理由だ」

十五年前のあの時、オマエは目的を果たして満足して死んだんだろう。
だけど、残された俺はどうなる?俺にもその死を受け入れろというのか?
俺たちが出会ってすぐ、オマエは少年院で死んだ。その後の二か月間、俺がどんな気持ちで生きたか、オマエにはわからないだろう?それがずっと続くとしたらどうだ?たとえ幼い姿であろうとも虎杖が傍に居たから、俺は世界を憎まずに生きてこられたんだ。
だから、もう絶対に手放さない。
その為ならなんだってする。
俺の執着がオマエにとっての呪いとなってオマエを永遠に苦しめたとしても、かまわない。
生きる理由なんていくらだって用意してやる。
だから。

「ずっと俺の傍で苦しめ」

その瞬間、胸の奥を突かれたような痛みがはしった。
違う、これは俺のじゃない。伏黒の痛みだ。伏黒はずっと傷付いてたんだ。
ごめん伏黒、俺は、やっぱり何もわかってなかった。
十五年間、今の俺が生まれてきてからの長いこの年月を、伏黒は何を思って過ごしていたんだろう?
イケメンで頭も良いし優しいやつだから絶対モテるし、しかも禪院家の当主なのにずっと恋人も作らなかった理由。
俺を預ける先なんかいくらでもあっただろうに、手元で育てた理由。
責任感や罪悪感なんかじゃない。
本当は、死ぬ前からずっと前から気づいていたけど、気づかないふりをしていた。

だって俺は死ぬ予定だったし、もしかしたら伏黒が手を下さなきゃならないかもだし、全てが終わったあとには俺のことを良いやつだったなってたまには思い出してほしいけど、少しでも早く忘れて元気に幸せな人生を進んでほしかったから。

いや嘘だ。そうじゃないだろ?伏黒の気持ちに気づいたら、俺が、死ぬのが嫌になっちゃうから。
だから、気づかないふりをしたんだ。
だけど伏黒にとって、そもそも俺の想いなんか関係なくて、結局無茶なことして俺を生き返らせた。
伏黒の我の強さを、俺は見くびっていたんだ。
俺がなにをしようと、伏黒は気持ちも行動も変えるわけがなかったんだ。

「ごめん伏黒、俺、オマエのことがずっと好き」
「ずっとって、いつからだよ」
「ずっとって言ったらずっとだよ。死ぬ前からずっと好きだったっ……」
途中で遮られた言葉は伏黒の口の中に消えた。
口全体を噛むように覆われて下唇をぺろりと舐められて、さすがにびっくりして固まった俺にふっと笑いながら離れる。
えええええマジですか?伏黒さん?
「きゅ……急デスネ」
「急じゃねょ。こっちは……こっちだってオマエが死ぬ前からずっとだし、何ならはじめに出会った時から……だのにオマエはずっと指飲んで死ぬことばっかり考えてやがるし、だから俺はっ!」
横を向いて小声でなんか悪態ついて、それから大きく息をつく。
「もう絶対離さねぇからな。オマエも覚悟決めろ」
「お……応!」
元気よく返事をして、反射で居住まいを正し、いやこれは違うなと膝をもぞもぞさせると向き合っている伏黒が薄笑いを浮かべてこっちを見ていた。
なんだか急に恥ずかしくなって「じゃ、そゆことで」と立ち上がりかけ、いやここは自室だし、ちょっとこのままは気まずいけれど、この部屋の他の行き場所は奥の寝室しかない。いや待って?でも寝室は、ちょっとまだまずい、というか早い。何のハナシだってまぁあれですけど。いやいつも同じ部屋で寝てましたけども。
次の行動の選択肢を見つけられなくてキョドっていると、伏黒は手を伸ばして俺を膝の上に引っ張りおろした。胡座かいた伏黒の足の間にスポンと座って後ろから抱き締められる。子どもの頃からよくこの体勢で本読んでもらったりとかもしてたけど、もう無理。どうしようもなくて両手で顔を覆うしかない。
「恥ずかしいんで、その……」
「びびってんじゃねぇよ」
耳のすぐ後ろで話しかけられるとぞくぞくっとして顔が熱くなる。ひぇっとかそんな声が出たのを笑われて、耳をぺろりと舐められた。
「ちょっ……た……タンマ!タイムタイム!!」
右手と左手でTの時を作って野球のサインを掲げる。
「覚悟決めろつったろ?」
「や!でもこんなすぐとは思わんでしょ?」
伏黒に囲われたままじたばたと暴れるものの、嬉しそうな伏黒の様子に本気で拒否るなんて出来るわけもなく、畳の上に押し倒されてしまう。
どうしよう俺?せめてエロビデオで予習くらいしておきたかった。
童貞を捨てる覚悟を固めつつ近づく伏黒の顔を直視出来なくて目を閉じたその時、部屋の向こうで人の足音が鳴った。
スタスタと遠慮のない足運びに「おい恵!入るぞ!」と声がかかる。と同時にスパンと客間の襖が開き、伏黒が溜息をついて身体を起こした。
うわーすごい不機嫌!
「おやおやぁ?御当主様はお楽しみだったかな?」
「……こういう嫌がらせは止してください」
にやにやと見下ろす真希さんに伏黒は眉間にすごい縦皺を刻んだ。
真希さんはそんな伏黒を楽しそうに眺めて俺に視線を移動させて顎をしゃくった。
「客だ、もうみんな集まってる」

「来たわね虎杖!こっち座りなさいよ」
すっかり出来上がってる釘崎がコップ片手に指先で招いた。
まるで当たり前のように「悠仁」ではなく「虎杖」って呼ばれる。
「いつ知ったん?」
「今朝、連絡がまわったのよ。五条先生から」
隣の座布団に座ると、俺の目の前の空グラスを取って俺の手に押し付けた、それから横の一升瓶を片手で持ち上げて傾ける。
「ちょっ!俺まだ未成年!」
「いいじゃないの。どうせ呑めるんでしょ?」
「釘崎、だいぶ酔ってんね?」
「まだ酔ってないわよ」
上からスッっと手が下りて、俺の手からコップを取り上げたのは伏黒だ。そのかわりにコーラの瓶をストンと置いた。
「やめとけ釘崎、成長期の身体に酒なんてダメに決まってんだろ」
そのまま隣に座るのかと思ったら、取り上げた日本酒のコップ片手に座敷の奥へ向かい、加茂さんと二言三言挨拶を交わして二人そろって縁側に移動してしまった。
当主同士、話すことがあるんだろう。二人を目で見送って、それからコーラのグラスを手にした。
「で、その五条先生は?」
「今日はまだ中国よ。明日にはこっち帰るから、そしたらすぐ顔出すって」
釘崎は頬に垂れた髪を耳にかけて、フキの煮物を箸でつまんだ。
「わたしたちはさ、分かってたわよ」
「なにが?」
「あんたがちゃんと帰ってくるって」
「なんで?」
「なんだかんだ言ったって伏黒は優秀よ。そんなアイツが生き返らせたのよ。魂と器だけ、なんてそんな中途半端になるわけないじゃない」
だから絶対、全部取り戻すって。
「帰ってきたら、ベビーちゃんの頃のアンタのハナシしてやろうって待ち構えてたのよ」
うふふと、目を細めて楽しそうに笑って、俺の頭をぐりぐりと撫でた。
「お手柔らかに頼んます。釘崎様」
ささ、これをどうぞ!とテーブルのチキンサラダを取り分けて釘崎に進呈する。すっかり昔のままの釘崎に気持ちがほぐれてくる。ほんの数日前にも会ったばかりなのにすごく懐かしくて、嬉しい。
「よぉ!おっかえりぃ!虎杖」
「パンダ先輩!」
後ろからぬっと現れたパンダ先輩につい癖でふわふわの身体に抱き着いてしまい、それから慌てて離れる。
パンダ先輩は笑って俺の頭を撫でた。
「オマエ、いっつも俺のこと『もふもふ~!』ってくっついて来てたもんな。いいぜ~好きなだけモフって」
ぽんぽんと腹を叩いてみせる。
みんな『俺』も『今の俺』も知ってて、それでもかわりなく受け入れてくれている。
入れ替わり立ち代わり話しをしに来てくれる人達と話して、子どもの頃の様子をネタにからかわれたり、でも、みんな俺のことをわかってて、俺が戻ってくるって確信していたみたいだった。
信用されてんね、伏黒。
懐かしくて、嬉しい。みんなが生きてることが。俺も、生きてて、みんなにまた会えて良かった。ね、伏黒、そう言いたくて縁側のほうを見ると、加茂さんとの話はあらかた終わったらしい。加茂さんが立ち上がり、伏黒はそのまま残った。でもそのまま庭を眺めていてこっちに戻る様子はない。
なんだかちょっと拒絶されてるようなかんじする。伏黒に限ってそんなわけないけど。
みんなとわいわいやりながら、しばらく様子見してたけど、伏黒は庭ばかり眺めていてぜんぜんこっちを見ない。
「あいつはあいつで黄昏てるのよ、しばらくそっとしときなさいよ」
釘崎にポンと肩を叩かれる。
「なんで?」
「15年父親やってきたのに、突然卒業しちゃったのよ。いくらあんたが戻ってきたのが嬉しくたって、寂しい部分もあるんでしょ?」
たぶんだけどね、だってあいつ、すごく真面目に育児してたもの。そう続ける釘崎に納得する。
そっか、そうだよな。少し考えて、それから急いで部屋に行き、目的のものを拾ってすぐに戻る。広間を突っ切って、縁側に向かい、ひょいと中庭に降りると中庭用の下駄をつっかけて伏黒の前に立った。
「伏黒、花火しよう」
手にした花火の袋を掲げる。思い出す前に買ってそのままになっていたファミリーパック。このサイズならこの人数でも十分遊べる。
「俺は、見てるだけでいい」
「そう言うと思ったんだよね。でも俺、伏黒と遊びたいよ。な?しよう?」
「……わかった。火ぃ持ってきてんのか?」
「もちろん!」
ポケットからマッチと蝋燭を取り出し、早速火を点けると蝋燭の根本を炙って石畳の上に立てた。
その様子に他のみんなもぞろぞろと中庭に降りてくる。
みんな勝手に袋から花火を抜いて火を点け、振り回したりしゃがんで眺めたり、思い思いに遊び始めた。風の無い中庭は、あっという間に色とりどりの火花と煙でいっぱいになる。
俺は太く火薬の巻かれたやつを取って火を移すと、人に当たらないようにみんなから少し離れた、じりじりと火花が付きはじめたと思ったら、あっという間に勢いよく吹き始める。
伏黒は俺の花火の先端に自分の花火の先をつっこんで火を移した。
横着そうにしているけど、楽しんでいるのが雰囲気でわかる。
「伏黒、俺ね、こうしてるとすっげー楽しいよ」
「そうか」
次々と花火に火を点けて走り回ったり動画撮ったり、縁側でお酒飲んでるやつもいる。今まで散々なことがあって、これからだって、明日どうなるかわからない。だけど今は、みんな楽しそうだ。
「伏黒は?」
「そうだな、俺は……オマエと居る時が一番楽しいよ」
俺の花火が消えて、それから伏黒の手にした花火も消えた。棒の根本に小さな火だけが残り、ゆらめき、消えて、細く煙が立った。
一振りしてそれを消すと、俺は伏黒に向き合った。
「俺も、伏黒と一緒に居ると楽しい。この15年間ずっと楽しかったし、その前の1年間も楽しかった、だから……」
ちゃんと言いたい。言葉にしたい。
「俺を生き返らせてくれて、ありがとう」
俺のせいで起きたいろんなこと、俺は忘れられないし、割り切れないし、きっとこれからも悩む。幸せだなって思うたんびに俺のせいで死んだ人の人生を想って悔やむ。
だけど、伏黒が一緒に居てくれるから、きっと、それを全部かかえたままでも生きていけると思うんだ。
伏黒の目が見開き、それから柔らかく細められる。

「おかえり、虎杖」

ふっと肩の力が抜けたように息をついて、15年前と変わらない、雑で、優しい表情をたたえた伏黒と、まっすぐに向き合う。

1年間共に過ごして、その後15年、育ててもらった。
これからは、また新しく一緒に、共に生きよう。

「ただいま、伏黒」


そして、これからもよろしく。